意見の欄
民生委員とは?
私たち民生委員は、国や県から委嘱された公的なボランティアです。任期は3年、無報酬で、200世帯から400世帯の担当区域を持ち、
私たちには、住民の生活相談、生活支援をすること、そして、地域の高齢者や児童の見守り、声かけ、地域の情報を把握することが大切な仕事になっています。
現在の社会状況からして、ますます、民生委員への期待度は高まりはしても、減るものではありません。個人的な活動で地域活動に頑張っています。
福祉とは?
福祉の視点から
「生活者とは、自分と自分の生活とを素材にしつつ、しかもそれをこえて、独立したもう一つの生活をつくりだす、行動的あるいは技術的人間をさしている。
生活者には、生活改造への内的な衝動によって、社会のなかに新しい意味を形成し創造していく人間というイメージがあたえられていた」
私は、これまで「ボランティア活動」と生活の関係について考えて来た。さらに、福祉とは何なのかと、これに結び付け、自分の生きがいや生き方、そして、政治とは何なのかとも考え、
これに派生して行ったことも当然のように思ってきた。はたして、過去の生活の豊かな体験が、何ものにも代えがたいものであればあるほど、もう一度、基本に立ち返り、これらのことについて、
位置づけして見る必要もあるのではないかと思う。
さて、私たちの方向性と、どう関連づけてみるのか。民生委員活動といい、ボランティア活動として運動をもつとき、その展開が自動的な積極的な運動に向かおうとすれば、
どのような意義づけや進み方で関わればいいのであろうか。私はかって、「ボランティア・キャンプ運動」の推進として提案し、その方向でやろうと出したことがあるが、どう関連づけられるか。
案外、方向性の説明としては、努力目標としての案であったが、具体的に活動をする方向では、はっきりした目標が立てにくかった。これが自動的な運動を形成するにはまだ、
なにか足りなさをもつのであった。やはり、歴史的な視点から分析をして、当然な確実な必然性を確認したいのである。現在では個人の自覚、社会での動向からして状況は煮詰まっているように思う。
ゆえに、新しい社会運動として設定し、民生委員活動の一環として行うべき行動の具体的な方向にもっていければ、いいのではないかと思っている。ボランテイア活動は、個人の自覚からも、
自然災害の多発により、その意義への参加が自主的で積極的になっている。さらに、社会的な面からも、社会貢献として行政や民間企業の理解や参加も十分な段階であり、
対応も整えられてきているものと思っている。このような状況を見るならば、その意義も、より積極的に受け入れなければならないだろう。
民生委員活動の不十分さから不可能な分野にすそ野を広げていかねばならないだろう。
さらに、福祉の観点から考えてみると、生活者の生活の安定と災害からの安全を確保するには、すべての個人や会社が、地域の日常生活のなかで生活支援やボランティア活動の場にしなければならない。
と同時に、福祉概念を自分の心情の拠り所とし、地域活性化の担い手として捉えなければならないだろう。これからは、地域でボランティア活動をしていくということを涵養を育むものだと認識で、
今後の教育活動の一環にもならなければならないだろうと思う。
生活者として、自分の生活を見直していくことは、これから、どのような生活設計を持ち、いかなる働き賭けにより、人生を選択するかの生き方である。そこでは、当然にして、
「生きてきた」生活から「生き方」の問題にならなければならないであろう。社会にたいしての働きかけをすることで、生活の改善でもあり、社会改革の展望にも賭けるのである。
これが福祉を視野に入れた社会運動としての民生委員活動への発展であろう。
おもろさうしとは?
琉球王府が16世紀から17世紀にかけて、編集した、古代古謡である。沖縄の古代の民衆の言葉、言葉の情緒が表現されている。
第22巻1554首ある。このHPでは、これらの唱がすべて見えて、語彙検索ができるようにする。
又、「おもろさうし」の資料収集中!!! 特に5曲6節の歌い方、山内盛彬氏の若い時と晩年の収録音は聞いたことがある。
著作権の関係でHPにリンクできないのが残念です。おもろと言うのがどんな歌い方をするのかあまり知られてないと思う。
その一部でも聞ければ、・・・・、その出だしだけの唱が聞けます。そして、外のクェーナや他のオモロ、唱に興味があります。
沖縄の基地問題
沖縄差別は当然か
沖縄は差別されて当然か。「普天間が危ないから辺野古に持っていくのは当然」と国民は言う。どうして当然なのか。 本土の基地が移転した時も沖縄に持ってきたから、沖縄は基地の捨て場だから
当然というのだろうか。 沖縄以外の基地移転について、安部晋三首相は「本土の理解が得られないから」と言って否定した。それなら、沖縄の理解は得たのか。県知事は辺野古反対の人が
民主主義の選挙で選ばれた。どうして理解を得られたというのか。沖縄は差別されて当然なのか。 沖縄を差別する首相はこうも言った。「先制攻撃が有効」。まさに戦争の生みの父ではないか。
それでは生みの母は誰か。日本国民である。母よ目覚めよ。こんな夫とは今すぐ別れるべきだ。戦争で命を落とすのはもうたくさんだ。琉球新報、声から
戦争
戦争とは、国家が組織的に行なう殺人行為である。政治的行為でもある。しかし、戦争である以上、あくまで個人が参加することで関係する行為である。すべてがシステム化され、機械だけが行うものではない。私たちは、国から凶器となる武器を与えられることで、
組織の一員となり、国の軍隊の手足になるのである。そこで、敵を殺す兵士の意識を教えられるのである。同時に国を守る意識も義務化するのである。
ただ、戦争とは、軍隊の隊員が行い、一般の国民は参加されるものではない。銃後の国民にはなっても、戦争の遂行による参加ではないのを留意すべきである。
それ故に、国民は、何が豊かな個人の生活を創るか、平和な社会であるか、福祉共生社会を創るにどうするかを考えることである。
なぜ人を殺してはいけないのか
私たちの生き方を、次のように考える。生活の生存になくてはならないものは、生活の糧となる食料と私の身近な家族であり、そして、周囲の人たち地域である。人は一人では生きられない。故に、他者を求めるのである。お互いが支え合うことで協力して、生活が成立しているのである。
私たち人間を創った神は、まず始めに、“人殺すなかれ!”と 人への戒めを与えたのである。人が生きるためにはお互いが結び合うことの大切さを説いたのである。しかし、人間の輪が広くなるに従い、人は他より、豊かになりたい、有利な条件で過ごしたい欲望が目覚めたのである。相手を支配し、自己の欲望を強いたのである。
そこに、国家ができ、支配者の権力が生まれたのである。
さて、中学生の疑問に対する解答であるが、これから引き出せるのではないかと思う。「なぜ!人を殺していけないのか」に対して、国の肯定の意見を認めることで納得している者も多いが、
すなわち、法律の下での死刑の執行と戦争における「敵」ならば殺せの奨励は誤りである。人間の生きるべき倫理的見地からすれば、“殺すこと”を認めるとすれば、すべては政治的な策略の一つに誘導されているのである。私たちが個人的な穏やかな豊かな生き方を求めるとするなら、家族と隣人を愛することから始めなければならないだろう。
活用方法
- こんなときに使えます。民生委員の広場として、情報交換の場としたい。
- ちょっとしたお知らせや告知に利用する。
- 放置ドメインなど、とりあえずトップページを表示させておきたいときに
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